BALLET & DANCE = My LIFE

バレエのこと。ダンスのこと。

世界有数の4大バレエの舞台を一気見して思うこと

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10月約2週間かけてニューヨーク・ロンドン・パリでバレエを鑑賞する旅を決行しました。

 

その後ロサンゼルスに戻ると、マリインスキー・バレエのツアーが待っているという奇跡が!わずか3週間ほどで、ニューヨーク・シティ・バレエ、ロイヤル・バレエ、パリ・オペラ座バレエ、マリインスキー・バレエという世界に煌めく4バレエ団をコンプリートしました。

 

こんな機会自体なかなか起こらないし、それぞれの個性がよく出る粒揃いの演目でもあったので、貴重な経験と感覚を忘れないうちに、この3週間を通じて思ったことを記しておこうと思います。

 

 

アメリカバレエにおける「美」の定義とは

最初に向かったニューヨークで鑑賞した、バランシンの珠玉の名作「セレナーデ」を中心としたニューヨーク・シティ・バレエ(以下「NYCB」)のトリプルビルの感想は、ショックの一言。

「このレベルで当日を迎えてよいの?」と、俄かには信じがたい感想でいっぱいになり、どぎまぎしながら帰路に着きました。

 

そもそも、私が育った日本のバレエの感覚でいうと、コール・ド(群舞)はじめ複数人で踊るバレエは、揃ってこそ美しいというのが大前提。

プロはもちろんのこと、私のようなアマにだって、照明合わせともなれば、「一番先頭は、前から2つ目の袖、リノの線の上に立って。そこから移動して、客席通路から3席目で止まって。」「上下(かみしも)で立ってる場所が違う!」「手の高さが違う!」といった指示が飛び交っていて、今でも夢に出てくるほど。

なので、複数人の踊りを観ていて揃っていないと、とても居心地が悪く感じてしまうので。

 

が、ところ変わってアメリカのバレエは、NYCBと並びアメリカ一有名なバレエ団の1つ、アメリカン・バレエ・シアターの「白鳥の湖」ですら、とにかく「揃わない」。

ただ、古典はさすがに「揃えよう」というダンサーたちの心の声は聞こえたので、それでも「揃わない」のは「さすが個人主義の国アメリカだよね」と思ってました。

 

その感想を超えてきたのがNYCB。もはや彼らは「揃えない」(ように感じた)のですね。「揃えよう」とする意識さえ見えなかったから、激しく心が動揺したのだ、と後から思い返しました。日本のように「揃える」ことを美の基準にしていないからなんだ、と美の定義が違うと気づいてなんだかすっきり。

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NYCBの持ち味は、並外れたダイナミックさと疾走感。

ここが彼らのバレエとしての美しさの基準なのだろうと思います。そして、アメリカ人の観客も、何よりダイナミックさや勢いがある、excitedなバレエが大好きです。観客にとっても、揃う美しさがなくても十分「評価の高いバレエ」になりそうです。

 

この基準がある中、NYCBのダンサーが、もし日本のコール・ドのように、「ジャンプはみんなが同じ場所に着地できる大きさに調整しよう」などと考えていたら、果たしてNYCBと観客が理想とするダイナミックさを表現できるのか、答えは否です。それだけ、全員のパワーが爆発しているところにNYCBの魅力があるし、観終わったあとの爽快感がなんとも心地よい。

とはいえ、ここまでダイナミックさにフォーカスするバレエ団は、アメリカでも珍しいと思います。観客席は大興奮だったので、これも1つの形なのかな。盛り上げるバレエ、アメリカらしい一面を観た気がしました。慣れないけど。

 

マノン史上最高のマノン

続いて、イギリスに着いた初日の夜、幸運にも大変な名演に居合わせることができました。ロイヤル・バレエの十八番「マノン」が素晴らしすぎて、冒頭から涙と興奮が止まらない!その場で興奮を共有したくて、すぐ後ろに座っていた素敵な日本人母娘に声をかけてしまったほど笑

私にとって特別の中でも特別なロイヤル・オペラ・ハウスで観ていたから、という個人的な感情を抜きにしても、素晴らしすぎる舞台でした。デ・グリュー役のロベルト・ボッレが、カーテンコールで感極まって涙を浮かべて立ち尽くしてしまうほどの大歓声と地響きのような拍手…。忘れられません!

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とにかく、主役のマリアネラ・ヌニュス&ロベルト・ボッレのマノンとデ・グリューには神が降りてきていまいた。これまで日本でもそれなりの数、かなりの有名ダンサーたちで「マノン」を観てきたのだけれど、この舞台は異次元レベル。

マリアネラといえば、伸びやかな肢体と確かな技術で、役柄の感情を細やかに情熱的に表現するダンサーですが、彼女の円熟した表現を最大限まで引き出せるロベルトの抜群のサポートがこれまた素晴らしかった!

一歩間違えば大きなミスになるぎりぎりのところまでマリアネラが体を使っても、必ずロベルトが受け止めるという絶対の信頼関係と、ぎりぎりの駆け引きの中でしか生まれない究極の演技。安心感に包まれたマリアネラは、極限まで自由に、体全身でマノンを生きていました。

ロベルトは、さすがに体力的な衰えでデ・グリューのうぶな若々しさを表現するには少し無理があるけれど、余りある情熱的な表現力とパートナーシップで極上の世界に仕上げたなと。ロベルトの年齢を考えたら、この2人をもう一度全幕で観られる可能性は高くないはず。「ロンドンまで行って本当によかったー」とただただ感動した夜でした。

 

また、全幕もののバレエには多くの登場人物が出てくるので、主役だけ素晴らしくても良い舞台にはならないものです。主役の出来が良ければ良いほど、主役と関わる準主役級のダンサーがこのレベルに達しないとときの興ざめ感といったら‥。

この公演は周りを固めるキャストもまた素晴らしかったことは言うまでもないですが、特に、ムッシュー・GM役のギャリー・エイヴィスとレスコー役のマルセリーノ・サンベを挙げておきたいです。

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まず、ギャリー。20年前Kバレエ・カンパニーの旗揚げ公演でギャリーが熊川哲也と踊っていたころは、まさかこんなギャリーを観るとは思わなかったけれど、いまやロイヤルの伝統を引き継ぐキャラクター・ダンサーとしてカンパニーを引っ張るギャリー。その演技は、毎度「なるほどー、そう表現するかー」と唸ってしまう職人感にあふれています。

ギャリーのGMは、「とにかく嫌なヤツ」。馬車から降りるときにハンカチで鼻を押さえる姿は客席にまで臭いを届け、レスコーを杖で突くちょっとした動作で金と階級がすべてを支配する卑しい当時の世界をまざまざと描き、レスコーを銃殺した後に高らかに笑って残酷さを見せつける、これでもかというほど「嫌なヤツ」。

6月に、あったかくて娘思いのロレンツォ役を観たばかりだったからか、同一人物かと思うほど演技が際立って見えました。どうその役を生きるかのイメージが頭の中にクリアにあり、そう見せるための引き出しに事欠かないギャリー。あのGMなくしてあのマノンの出来はなかったと思います。

 

そして、マルセリーノ。6月のドンキではやや準備不足にも見えたバジルでしたが、今回は、最高に愛すべきレスコーを演じていました。レスコーは、高い表現力が必要とされるのはもちろんのこと、砲弾に倒れるまでの各幕でなかなか難しいヴァリエーションをこなさねばならず、男性ダンサーの総合力を試される役です。

1幕が開いたとき最初に観客の目に飛び込むのは舞台の中心で黒いマントに身を包むレスコーだし、この作品のキーパーソンで、レスコー役の実力は間違いなく舞台全体の出来を左右します。そんなプレッシャーのある役どころをこなした、マルセリーノの高い身体能力と若々しいはつらつとした表現は、無鉄砲で享楽的なレスコーの性格にぴったり。

2幕の見せ場、酔っぱらいの演技も、出し惜しみを一切しない体当たり(床に転ぶところなど文字どおり体当たりで舞台に背中を打ちつけ、痛そうだったけど)の演技で、観客席は笑い声に包まれました(これがまた後半の悲劇とのギャップになることがわかってるので、笑いながら泣いていた私です)。

また、これは彼の人柄からくる解釈だと思いますが、マノンを金の成る木として利用しながらも、心は優しく妹思いの面が強めに演技に現れていて、この表現がGMに銃殺されるときのレスコーの哀れさとGMの非情さを際立たせていました。

 

誰が欠くことでも成立しえなかった極上の舞台でしたが、最後に、活躍する日本人の中でもアクリ瑠嘉を挙げておきたいと思います。

多くの日本人が出演していたこの舞台の中で、ベガー・チーフを演じた瑠嘉君の放つ華やかさは目を惹くものがありました。華があるとは彼のことを言うのだろうと久々に感じる強烈さがありました。ファースト・ソリストに昇格したばかりですが、プリンシパルも遠くはないはず。ますます活躍してほしいですね。

 

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バレエは作品と劇場を一体として成り立つ

感想とは別に、マノンは大好きな作品で日本でも観てきただけに、気づきのある舞台でもありました。その1つは、「バレエは作品にフィットする劇場があって初めて完成する」ということです。東京にいると、海外の第一級のバレエ団を観ることができるので、すっかり世界中のバレエ団の舞台を堪能した気になっていたけれど、ちょっと違ったなという話です。

 

もうちょっと具体的に言うと、バレエって、舞台という枠の中の世界に見えるので、私としては日本で観ても本拠地で鑑賞しているのと全く同じ経験ができていると思っていたんですね。だけど、実際は、本拠地とそれ以外の劇場とでは、舞台装置・衣装・照明の劇場空間へのフィット具合が全く違うのだなと。

これまでも、海外の全幕バレエを日本で観たとき、たまに舞台装置やデザインのセンス(特に色味)に疑問を覚えることがあったのですが、装置のセンスと東京の劇場が合っていないからなのか、と初めて気づきました。本拠地の劇場で観たらもっとフィットして見えるのかもしれないと。

 

一流の舞台を東京で観られることに感謝しつつ、本拠地まで通うことの意味を実感した瞬間でした。また、いつか、日本でも、劇場の持つ色味、明るさ、空気に溶け込み、日本のバレエを最大限に生かした作品が生まれたら、と思いを馳せる夜でした。そのためには、劇場専属のバレエ団が必要で、そのためにはバレエ・オペラ専用劇場の建設が必要で‥と途方もない道のりなのですが…。

 

加えて、ダンサーたちからは、ツアーで踊るダンサーから感じるものとは別の、「無意識下の意識の違い」も感じられたように思います。良い舞台に必ずある良い緊張感とともに、本拠地にしかない気迫のようなものがすごかった。

厳しい鑑賞眼を持つロンドンの観客にさらされれば、どんな名プリンシパルでも緊張せずにはいられないだろうけれど、それだけではなく、マノンを初演から脈々と受け継ぐロイヤル・オペラ・ハウスに立てることへの誇りと自負、役柄を生きるダンサー同士の熱がぶつかる気迫、そしてこの舞台で踊れることへの喜びが満ち溢れた舞台だったと感じます。

そんな感覚を、ダンサーとして味わってみたかったと思う一方で、ダンサーでは絶対に味わえない、真正面から観客として観られることの感謝を噛み締めながら劇場を後にしました。

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世界のバレエの個性と日本のバレエ

本家ロイヤル・バレエにしかできない、バレエで役柄を生きるマノンの世界にどっぷり浸かった翌日がオペラ座のコンテンポラリーで、どうにも私に鑑賞の準備ができていなかったのが、この旅一番の後悔です。

ロイヤルの興奮を十分に消化できないまま、よく寝ずにパリに入ってしまったし、じわじわと侵食してきてくれるコンテンポラリーでもなかったので、体と心にうまく吸収できず。観た直後こそそれなりに感動したはずですが、今となっては文章化できるほどの感想もなく、もったいないことをしました‥。

舞台を創り上げる人たちのパワーを受け止めるには、心身の余裕を持って臨まないと、本来感じられるものも感じることができないなと。

 

唯一今書けることは、NYCB・ロイヤルを経てオペラ座のバレエを観ると、それぞれの国を代表するような、各国のバレエの個性をひしひしと感じたことでしょう。

オペラ座のバレエは、いつどんな作品を観ても、独特の気品とウィットさに富んでいます。一人ひとりのダンサーがクレバーで意志と意見のある踊りをするから、コンテンポラリーも各人が意味付けをしてきっちり踊りこなす印象を受けます。もちろん、アカデミックなスキルが統一されているから、複数人で踊るシーンでは、たとえ男女であってもぴたりと揃い、日本人が観ると清々しいのも魅力です(アメリカ人はあまり感じないかも)。また、手足の末端を、まるで水の中で抵抗があるかのように粘りのある使い方をするので、観客には動きの残像が見え、何とも言えない美しさがある(と私は思っている)のも素敵なところ。

 

一方で、オペラ座は、羽目を外したり、遊びを残したりするような踊り方をする人は少ないという印象もあります。人間でいえば、下世話な冗談が通じないような真面目さがあるのですね。

例えば、今回の旅の後マリインスキー・バレエのジュエルズを観たときのこと。ジュエルズといえば、私の中ではオペラ座の映像化されたバージョンが1つの完成形だと思ってきたのですが、今回初めてマリインスキーのルビーを観て「なるほど」と思うことがありました。

リードしていたのはキミン・キムでしたが、彼はこの役をかなりおちゃめに、遊び心いっぱいに踊っていました。確かにルビーの動きは、エメラルドやダイヤモンドに比べてクラシックが崩され、Jazzyだったり可愛げがあったりするので、前後の宝石たちとの比較を出す意味でも、思い切って遊ぶのは1つの見せ方だなと。これに対し、オペラ座のルビーは、決して遊びすぎることはなく、節度を保った演技を披露しているところがいかにもフランスらしいのです。

 

ちなみに、一度観たかったキミン・キム、今回の鑑賞ですっかりファンになりました。音のしないしなやかで美しいジャンプと抜群の叙情性のバランスがなんとも言えず。今回ルビーとバヤデールのソロルを観ましたが、特にソロルは秀逸。間違いなく時代に名を残すダンサーになります。アメリカ人はキミンが飛ぶたび歓声を超えた絶叫を上げていましたが、私だって恥ずかしくなければ絶叫したかった笑

 

また、脱線ついでに、マリインスキーといえば永久メイさんに触れないわけにはいきません。バヤデールでは影の第3V、ジュエルズではエメラルドのトロワを取ったメイさん。素晴らしかったです。どこまでも無理がなく伸びやかに体を使える技術力と、芯のあるバレエ。マリインスキーは、コール・ド止まりのダンサーとプリンシパルになりうるダンサーの線引きが明確だったのが印象的でしたが、間違いなくメイさんはこれから登っていく人の1人。日本人として誇らしくなりました。

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さて、本筋に戻って、オペラ座の気品にしろ、NYCBのダイナミックさにしろ、ロイヤルの演劇性にしろ、マリインスキーのピュアな美にしろ、各バレエ団にはその国の歴史が色濃く反映され、所属するダンサーたちの踊りには、その国の国民性をベースにした個性が強く発揮されているように感じました。観客席にいると、この国民性を反映した個性が観客の琴線に触れ、熱狂を生み出していることがよくわかります。

そして、熱狂の渦中で思うのです、果たして「日本のバレエの個性とは一体何だろう」と。よく言われる、精度の高い技術やよく揃ったコール・ドは、確かに日本人の精神性の現れではあると思うし、世界に誇れる日本らしいバレエの個性になりうるでしょう。でも、それを本当の意味で徹底するために必要なアカデミックな教育はできていないし、日本人らしい職人芸を極めるための社会的な地位の保障や財政的なサポートも無に等しい。

今までも、これからも、日本が西洋から取り入れたバレエを発展させるために、世界一線のバレエ・ダンス界の流れに食らいついていくことは必要ですが、世界における日本のバレエのプレゼンスを上げること、もっと国内の観客を質・量ともに上げることも志向するのであれば、日本独自の日本らしい日本人にしかできないバレエ・ダンスを育てていくことも極めて重要になると考えています。

 

儚いからこそ美しい

超日本人ぽいタイトルですが、いよいよ書こうと思っていたテーマも尽きてきました。が、どうしても最後に、スティーブン・マックレーに触れておきたいです。今回、旅程を組む中で「マノン」は最低でも2回、違う席で観たいと思い、高田茜&スティーブンのチケットを確保していました。今年春に手術したスティーブンの復帰公演、6月に東京で観られなかったこのペアのマノン&デ・グリュー、わくわくしながら旅の最終夜、ロイヤル・オペラ・ハウスに向かいました。

 

しかし、1幕冒頭からどうにもスティーブンの調子が良くない。彼はどんな役であってもきらきらと輝きを放つタイプなので、不調か否かは踊らなくてもすぐにわかります。動きにも精彩を欠き、役にも十分に入り込めない様子が続いた第2幕。夜会の第1場のあと、寝室に戻ってきた踊り始めで「ん?」と思ったのもつかの間、スティーブンが足を引きずって幕に戻っていく…この状況で走ってはけることすらできず、足をかばいながら下手の幕に向かう彼の痛々しい姿を目の前にして、泣けてきました。

30年近くバレエに関わり、本番中に大きな怪我をする話もいやというほど聞いてきたけれど、その場に居合わせたのは初めてのことでした‥。

 

改めて、バレエが肉体を酷使しながらダンサーの有限の身体能力を削って紡ぎ出される芸術であることをまざまざと感じずにはいられませんでした。スティーブンは今33歳(12月で34歳)、怪我が治ればまたダンサーとしてのキャリアを継続できる年齢ではあります。でも、20代のようには完治しないかもしれない。果たして今回のマノンに出演したことが彼にとって最善の選択だったのか、数十年後スティーブンの全盛期はいつだったと評されるのか。

 

ロベルトのように44歳になってもデ・グリューを踊るダンサーもいれば、若くても怪我により突然引退を余儀なくされるダンサーもいる。そんな儚さがあるからこそ、今を生き、踊れる喜びに溢れたダンサーたちのバレエは美しいなと思ったのでした(外国人はこの点に美を感じていないかもしれないけれど)。そして、ダンサーをキャスト表どおりに、良いコンディションで観られることは決して当たり前でないことを胸に刻み、一回一回の公演を大切に鑑賞し、記憶と記録にとどめていきたいなと思い、この旅行記を書くに至りました。