
9月に入って異常気象ですね…どんよりとした雲、鬱陶しい雨、東京は幸いにも大規模な災害にまでは至っていないけれど、否が応でも気分が滅入ってしまう今日この頃です。こう毎日太陽の光を浴びられないと、なんだか自然に心がネガティブになってしまうからか、わずか1ヶ月前にはうらめしくて仕方なかった陽射しが、今は恋しくてたまらない。たまに太陽が顔をのぞかせると、日傘を差すのもやめてうきうき外に出かけています。
このブログを書きあげたのは9月20日の連休2日目。
昨日9月19日は早稲田大学大学院経営管理研究科の学位授与式でした。足掛け2年半、自分のキャパをぎりぎりまで使って最大限の機会を得て、それを経験という形で自分の財産にさせてもらった大学院生活、ついに終わりを迎えました!万歳!
思い起こしてみると、大学院生活の始まりと同時に月1のブログ投稿を始め、気づけば大学院に関連する投稿は20本を超えました。今回の投稿にあたってすべての関連投稿にざっと目を通して思うことは、仕事との両立のなかで不完全燃焼の部分もあったけれど、「やりきったな」の一言に尽きます。思い立って大学院進学を決めたときには想像しなかったような人生の変化に至っていて、心から挑戦してよかった。その挑戦の称号としての経営学修士(MBA)は、きっと私を新たな挑戦の機会へと導いてくれるとも確信しています。
ということで、今月は、大学院のすべての過程を経てみていまの私が感じる「大学院生活で得たこと」を言語化してみたいと思います。正直、科目ごとの専門的な理論や具体的な知識は学習を継続しつづけない限り忘れていくし、多くはAIに代替されていく類のものでしかありません。特に経営知識は数値やフレーム化された理論など、AIに凌駕されやすい領域でああります。(ついでに言うと私は忘れっぽいので覚えた知識もすぐに抜けてしまう💦)
一方で、大学院生活そのものの「経験」はAIに決して真似されないものであり、通った学生一人一人にとってそれぞれ固有の価値を持つ時間であることも紛れのない事実。私にとっては、10年後20年後に振り返ったときに人生の大きなターニングポイントの瞬間だったと感じるに違いないと思える濃密な期間でした。
言語化力・伝え方の大切さと難しさ
これまで高校、大学の高等教育に加えて、有難いことにロースクールも修了していますが、これらの教育とビジネススクールの教育の間で最も違っていたのは「言語化力・伝え方の鍛錬」であると感じています。ビジネススクールでは、グループワークやプレゼンの機会が圧倒的に多く、言葉によって議論し、お互いの学びを深め、教授とディスカッションし、聴衆を魅了する、そんなことが日常的に求められます。単に知識や理論をインプットするだけでなく、アウトプットが前提になっている実践的なカリキュラムですが、実はこれまで十分に経験したことがありませんでした。社会人を経験しているわれわれは、人と人との関係の間には常に「言葉」があることを痛いほど体感しているからこそ、プレゼンやグループワークの重要性を理解しながら、ビジネススクールという失敗の許される環境で日夜目をこすりながらも経験を積んできました。
入学当初はまさか大学院の学びとして一番最初に「言語化力」を想起するとは思ってもいなかったし、私でいえば法務以外の経営知識全般を身に着けることが自身のキャリアに必要だと感じて入学したのでした。しかし、大学院生活を通じて経営に必要な様々な知識を全方位的に押さえられたことはもちろん重要な価値ではありますが、この2年半の間に劇的に社会は変化して、これからのAIとの共存の時代に人間に求められるのは、AIに頼ることのできない身体性になりました。身体性というとダンスやバレエなど日常から離れた身体を使う何かを思い起こしがちですが、誰しもが日々扱うのは「言葉」を通じた身体性です。社会に戻れば常に「言葉」で人を説得し、共感し、激励し、先導することを求められ、五感を使って身体性を通じて人間らしい活動に従事していくことを思うと、この2年半集中的に「言語化・伝え方の鍛錬」を蓄積できたことこそが、今後の社会人人生に一番大きな影響を与えるように思います。

私の場合は、この2年半を通じて、仕事でもプレゼンや登壇の機会が圧倒的に増え、常に実務と連動しながら「発表」の訓練と本番を行ったり来たりしていました。大学院関係で印象的なものでいうと、M1時代のJBCCファイナルでのプレゼンやインドはベンガルールでの英語プレゼン、M2では「アドテック」の登壇や、もちろん圧倒的な時間を割いた修論の公開審査会、そしてオランダの授業での英語プレゼンもありました。これ以外の授業でのプレゼン・グループワークの時間も含め、すべての機会が人に「伝える」ことの深さと難しさを考える時間だったように思います。
これまでも、弁護士という職業柄言語化を求められることは多く、セミナー登壇も多いので、法律に明るくなく、かつ自分と同世代の人を相手方として、法律の概念の説明や事例への当てはめをわかりやすく伝えるスキルは一定身に着けてきた方だと思います。一方で、ここ数年仕事のフェーズが変わってきたこともあり、課題感を持って教授陣や大きなイベントでの登壇者のプレゼンを見聞きしていると、ちょうどいまの私くらいの年齢からは、これまでの伝え方のスキルだけでは太刀打ちできないことを明確に認識しました。例えば、
- 弁護士の壁を感じさせないフランクな言い回し→目上の方の前でも恥ずかしくない言葉選び
- わかりやすさを最優先した言い換え表現→わかりやすさの中にも難解さを匂わせる論理展開
- 滑らかに矢継ぎ早に言葉を繰り出す話し方→ゆっくりとメリハリのある低めの音階
などなど、一言でいえば「大人のプレゼン力」が必要になり、そのための言語化力(論理構成と言い回し)と伝え方(スライド構成と話し方)は、これまでの自分のやり方からはかなりの変化を迫られました。まだまだ道半ばではありますが、大学院入学当初に仕事で課題として感じ始めたことを、大学院生活の実践やフィードバックを通じて「こうやりたい」という自分なりの完成型と「ここまで準備しないと今の私にはできない」という必要な準備時間・プロセスを整理できたことは、大きな収穫です。これからも自ら登壇の機会をつくりつつ、こつこつと練習を重ねていきたいと思います。

思考の軸を知り、創り、磨く
入山ゼミに所属し、「思考の軸を鍛える」というコンセプトのもと、大量の世界トップレベルの論文を読んだことで、(細かいところはよく覚えていないにせよ💦)今後起こる多様な意思決定の局面における新たな武器を手に入れられたことは大きな財産です。もちろん、これは知識なので、AIにも答えられることではありますが、一度自分で理解するプロセスを辿らなければ問いを立てることもできないわけで、私にとっては「法律」に続く非常に強力な思考のツールを手に入れることができたと考えています。
とはいえ、「知識」を手に入れるという意味だけであれば、入山先生の著書である「世界標準の経営理論」を読めば良いのでは、と思われるかもしれません。それはまったくそのとおりで、私としては、論文の理論という知識を得たこと以上に、各論文についてゼミ内でディスカッションし、友人が自分とは異なる観点を指摘してくれることで、ぐっと理解が深まり事例にあてはめられるようになったり、ときには「この理論はこういう事例は想定しておらず片手落ちである」とか「この実証研究はアメリカでは通用するけど、日本ではあてはまらない」といった著名論文の射程範囲や(ときに)不完全性まで把握できていることに意味があると思っています。
つまり、超トップレベルの普遍的な論文でもない限りは、論文といっても万能ではなく、「思考の軸」とはいえ常に批判的に捉えうるものであることを体感できていることに意義があるように感じます。特に経営学は、比較的新しい学問で、世の中の経済状態や市場環境などの状況に応じてトレンドや趨勢が変化していくものでもあるので、この時代には抜群に使える理論でも、時代が変われば通用しないといったことが容易に起こる印象でした。特に変化が速い現代においては、その傾向は加速していくのかもしれません。私がこれまで扱ってきた法律は、時代が変化したあとから立法が追いついていくもので、一度法律化されれば時代が変わっても有効であるという意味で硬直的なツールなので、その違いを体感するのも面白く、まったくタイプの違うツールを手に入れることができたことが私にとっての固有の価値なのだろうと思います。
また、自分が修論を作成して一定の理論構築をしたことで、今までは、法律・判例・論文のように、ありものの理論を「使う」ことしかしてこなかったのに対し、自分が理論そのものを構築することができるということを実感できたことも得難い経験でした。自身を取り巻く「アートとビジネス」の関係性を整理していくという命題のもとでは、ぴたりと当てはまる既存の理論はないので、何かしら強固の枠組みのようなものがないとインパクトのある形で社会に説明していくことはできないのではないか、と思っていますが、それが「不可能なことではない」と頭で理解できたことは、一筋の希望の光を見出したような気持ちです。
一方で、素晴らしい数式ほどシンプルである、と言われるように、経営理論や学者・実務家が構築するフレームワークも、頑強なものほどシンプルでクリアです。そんな理論を果たして見つけることができるのか、と考えるとそれは困難な道のりであるようには感じていますが、この大学院での経験を踏まえ、ダンス・バレエという身体芸術とビジネスの双方を理解している自分の強みを生かした理論構築のような取組みも、今後も自分なりに機会を見つけて実行していきたいと考えています。

付け足す工程を終了する
バレエでは、常に「完璧」という状態はありえず、自分が「できていない」ことをベースに「できるようになる」ことを目指して日夜踊り続けていました。そういう思考と訓練が身についているからか、弁護士になってからも、不甲斐ない自分の未熟さにばかり目がいき、自分はいつも何かが不足しているとの思いのなかで、ずっと自分に何かを付け足すことを求め続けてきました。新しい知識を身につけること、多様なクライアントを増やすこと、経験のない世界に飛び込むこと、そして未知の領域の大学院に入ること。できることを増やしていけば、その先に「自分にしかできないこと」が見つかるような気がしていました。「まだまだ足りない」を原動力にしながら、そのエネルギーで自分にしかできない何かを追い求めてきたように思います。
でも、MBAを取得したいま、ようやく、自分に何かを付け足し続けるフェーズは終わったのだと、自分の中で納得感を持って認識し、少し安堵の心持ちで今日を迎えています。もちろん、これからも新しいことを学ぶし、知らない世界にも出会いたい。でも、それは「足りない自分を補うため」ではなく、すでに自分の中にあるものをどう使うか、を熟慮した結果としての出会いなのだと思っています。これまで仕事や大学院、留学などを通じて身につけてきた知識や経験は、かなりの回り道もしていて、軸を異常なほど広げながら積み重ねたのでかなり取っ散らかっているようにも見えますが、2022年に大きな病気を患ってからは常に自分の胸に手を当てながら1つずつ選んできたことで、やっとこれから1つの方向に収束させていくことができる、という感覚を得ています。これまでの無数の経験をどう組み合わせ、どう編集すれば、自分にしかできない仕事になるのか。何か新しいものを外から持ってきて自分に足すのではなく、すでに持っているものの間に、新しい関係をつくっていくことで、実際に形にして、試して、自分らしい成果を出していくフェーズなのだと思っています。ここから5年~10年くらいは、自身の代表作といえるような仕事を自ら掴んでいける兆しが見えてきていて、わくわくしながら動き始めているところです。

この2年半の大学院生活とその間にあった様々な出会いや新たな取組みを通じ、ようやく自分の不足感を満たす行為に終止符を打てることで、大学院の終わりこそ新たな始まり、と強く感じています。今もなお時折強烈に満たされていない感覚も覚えることもありますが、そんな自分の思いも自分らしいとまっすぐ受け止めながら、次のチャプターへと少しずつ歩み始めているところ。この早稲田での2年半をターニングポイントにするのは自分自身で、そんな未来をつくっていきたいと思います。
大学院生活を通じて出会った全ての方々、極限の生活を支えてくれた家族に改めて感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました!これからもよろしくお願いします!




























