
オランダはロッテルダムに来て、はや2週間。目に触れるものすべてが新鮮できょろきょろと見渡していた時期を越えて、少しずつこの環境が日常になりつつあります。
ロッテルダムは、第二次世界大戦中、ドイツ軍に市街地を徹底的に焼き払われましたが、その後敢えて歴史的な景観を復元しなかった都市です。先進的な都市計画とモダン建築のおかげで現代的な街並みが広がり、ヨーロッパ最大の港湾都市として重要な機能を有する一方で、アムステルダムに比べたら規模は小さく、良い意味で田舎。人々は優しくのんびりとした空気が漂っています。自称シティガールを標榜する私としては物足りなくなることもあるけれど(笑)、そのゆっくりとした空気に身を任せて内省するのが心地よい、そんな場所です。
とはいえ、新しい場所で生活の基盤をつくることは結構疲れる作業でもあり、初めはアドレナリンが出て元気モリモリだったのが、少し慣れて風邪っぽくもなり、そしてここ数日でやっと自分のペースがつかめてきたような気がします。海外に暮らすと自分の嫌なところばかりが見える、というのも毎度のことで、この2週間は落ち込むことも多かった。でもそんな気持ちもせっかくだから忘れたくない、ということで、ロッテルダムに来てから思っていることを記録していきたいと思います。
今英語を学習する意味
とにかく自分の英語に絶望する毎日です。学生時代に真面目に英語に取組まなかったころから貯め続けた負債は、一体いつになったら完済できるんだろう…。今でこそ日常生活のリスニング・スピーキングに不安はないものの、アカデミックな場で、自分に親和性がないトピックでのリスニングは今でも苦手意識があり、さらにスピーキングとなると、授業開始直後の今は全然だめです。
でも、あえてそういう場に身を置くために留学に来たわけで、「全然できない」と絶望すること自体も想定の範囲内。「できない」「もうやだ」と感じることは至って順調なのに、そのことを忘れてついついマイナスな気持ちに引きずられそうになるけれど、ここからどう動くのかが一番大切と言い聞かせる。とにかく小さなことでもアクションして、1つずつ積み上げてそれを可視化し、前進のプロセスを記録することで気持ちを維持するようにしています。

よく言われることですが、英語をビジネスに使おうと思ったら1000時間くらいは学習時間が必要なのだそうです。私の場合は、英語に関してはこつこつ積み上げるのが苦手で(だって面白くない…)、これまで英語学習の機会は多々ありながら、毎度本腰を入れず、何度となくごまかし続けてきました。そして、結局必要な勉強時間を確保せず、上達に対して遠回りをしているという悲しい結末。とはいえ、いい加減克服したいし、もっと海外の仕事を増やしたい気持ちもある。6月末には、伝えたいことを今よりは英語で伝えられて笑顔で授業に臨んでいる自分をイメージしながら、1人の時間は精一杯英語に触れ、腰を据えて学習していきたいと思います。来月のブログのころには少しは変化が表れていますように。
今後AIがどんどん有能になるにつれ、英語を身に着けることの意味はなくなっていくのかもしれないと思っていたけれど、オランダに来て、目の前にいる人と心を通い合わせるコミュニケーションをするために、やっぱり私は英語を身に着けたいなと強く感じました。劇場で同じ作品を観るお隣のおじいちゃんとストレートに感想を言い合いたいし、日々困っているときに助けてくれる人たちにも「Thank you」だけではなくきちんと自分の言葉でお礼の気持ちを伝えたい。AIによっていろんなことが簡単になっていく今だからこそ、反復練習や淡々と継続する経験そのものの価値も上がるように思います。
まぁ理由はいろいろつけてみたものの、とにかくやるって話です。それが、家族や仕事仲間、取引先の方々などこの留学を許容してくれた周囲の人たちに対しての一番の恩返しだと思っています。

苦手なことが浮き彫りになる外国暮らし
それにしても、外国に来て一番苦手なのは友達づくりです。日本語なら全然大丈夫だし、むしろ「はじめまして」の方に会うのは新しい世界が広がって大好きなのですが、英語となると別人になる…。英語で学校の友達と初めて話すのが本当に苦手。
スピーキングに苦手意識があるから、といえばそれまでだけど、そんなの気にせず世界中で友達をつくれる人は世の中にたくさんいるわけで、どちらかというとプライドが邪魔していたり、自分のコミュニケーションに自信がなかったり、一言で言うと人見知り全開。でも旅行中に出会う人とお互いの母国の話をしたり、劇場で隣に座った人と話すのは好きだったりもして、どこでスイッチが切り替わるのかは我ながら謎です。
友達がつくれない自分が前面に出てくるのはなかなか嫌なものだし、今日も友達とうまく話せなかったと自己嫌悪になる日々ですが、言語が不自由だからこそ出てくるそんな自分を感じながら、どういうときに苦手が顔を出してくるのかを自分でも確かめているところ。そんな簡単に性格は変えられないし、無理に仲良くなろうとする必要はないのだろうけれど、帰ってから後悔だけはしないように、と思っています。
与えられた機会に丁寧に向き合う
3月最後の日曜に、アムステルダムまでオランダ国立バレエ団の公演を観に行ってきました。演目は「ラ・バヤデール」で、白鳥の湖などに代表されるロシアバレエの特徴を詰め込んだ古典中の古典。オリジナルの演出は当時のヨーロッパのオリエンタリズムが爆発した古代インド風で、多くの改訂版でもこの世界観が維持されています。一方、オランダで上演されているバージョンは、よりリアリスティックで、ヨーロッパとインドが交易を深めた17世紀以降から19世紀くらいに時代を移した演出でした。
一般的なバヤのイメージとはかなり違うので驚きつつも、ある意味とてもオランダらしい。まだオランダに来て長くないけれど、小国がゆえの生存戦略もあって、先進的な取組みに対する許容度が高い国と感じます。完全循環経済社会を本気で目指し、欧州最大規模のグリーン水素のプラントを建設しているなど、新しい産業や経済構造そのものにインパクトを与える実験的な取組みに早い段階から手を挙げる国です。バレエも、時代によって変化したり、今の観客に合わせた実験的な試みが不可欠だと感じていますが、アムステルダムで見た新しい演出は、オランダらしさを存分に感じさせるものでした。
また、海外に来ると、ダンサーの踊り方や舞台への向き合い方からもその国らしさを感じます。バレエはメソッドがあり、古典作品の場合は振付も近く、ある程度の制約があるからこそ特徴が際立つのが面白い。オランダのバレエの良いところはなんといってもダイナミックであること。背が高いダンサーが多いこともあり、体で描き出せる空間そのものが大きく舞台が狭く感じるほど。

一方で、合理性の気風ゆえなのか、舞台が日常化しているからなのか、細かい部分での粗が目立ちます。何事も8割まで持っていくのと81%から100%まで持っていくのとでは、大変さが違うと言いますが、日本人は良くも悪くも99%でも完璧ではないと思う傾向にあると思っていますし、バレエにもそんな雰囲気が見て取れます。そんな日本人の目で見ると、もう少しやりきれるんじゃないかな、とかあとちょっと手先まで気を遣ってほしいな、とかそんなことを思ってしまいました。
最近よく「美」について考えていて、美とは信念にも近い概念だと思っているのですが、今回オランダのバレエを見ていて感じたもどかしさから、私の思う美には「こだわり」という要素もあるんだなと気づきました。最後の1ミリまで妥協したくない、と本気でバレエに取り組んでいたときは思っていたし、今もバレエを見る時は細部に目がいきがちです。そうやって極限までこだわり抜いた至極の踊りを見た時に、深く感動を覚えます。
他方、自分の仕事のことを考えてみると、細部にこだわるよりも大局的な判断や直感的な洞察が得意で、細かいことには苦手意識を感じてきました。ただ、それって本当に苦手なことなんだろうか、と今回の舞台から派生して思うに至りました。例えば、自分の別の気質として、好きなこととそうでもないことがハッキリしている、という部分があるので、あまり興味のないことに取り組んでいることで、細部にこだわれないだけなのではないか、とか。あるいは、常に必要とされないと不安を覚えるので、ついあれこれ抱えすぎていることで物理的にこだわる時間を取れないだけなのではないか、とか。「できない」のではなく「できなくしている何か」があるだけで、本当はもっとこだわりたいのかも?だから、今までは何をやっても何もできていないように感じるのかもしれません。
少しずつ自分が本当に興味のあることだけに向き合える環境を整えてきた今だからこそ、自分の承認欲求はぐっと抑えて、目の前に与えられている機会に丁寧に向き合っていくことが、今の自分にとって大事にすべきことなのかもしれないな、と感じたりしました。
新年度が始まり、ようやく仕事も含めて新しい生活が始まったなかで、改めて物事への向き合い方、人への向き合い方、人生への向き合い方を見つめ直しながら、日々を大切に生きていきたいと思います。